01 (日)13:44December [PR] ×[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 2024-12-01 (日) | コメント()
27 (日)23:59January 奈良のラーメン「神座」 先週、関西にしかないラーメンレストラン「神座」(かむくら)でラーメン食べた。 いつも行列ができてるって聞いてたとおり、確かにその日も15人ほど待っていた。 店内広いので、10分ほどで席に通されましたが。 「神座」福岡オンナのわたしにとって、初めて見るラーメン屋でした。 ラーメンレストランなので、店内のテーブルやイスの配置、メニューの看板もファミレス仕様。 ラーメンレストランなので、メニューも豊富。フライドポテトとジュースのセットもあったし。 驚いたのが、夜22時過ぎると料金が100円上がるらしい。 夜になって値上がりするとは何と殿様商売(笑) それでも、客足はそんなに減らないんだって。 そして、でかでかと貼ってあるのがこれ。 1回めはおいしくないって思うのが当然らしい。 しかし、ほんとうに美味しいものは1回目から美味しいって思うものだ。 食べてるうちに美味しくなって好物になる食べ物もあるけどさ。 でもこんなふうに書かれてたら3回来てみようかって気分にさせるよね。戦略だ(笑) 一番人気の「おいしいラーメン」 麺が見えないくらい白菜が入ってるのが特徴。 味はコンソメ味みたいなしょうゆ味みたいな、麺は太め。要するに中華めん。 食べる前に言われた「ラーメンと思って食べないほうがいい」という言葉どおり、ラーメンと思わないで食べたら、まずまずだった。 美味しいとは思わなかったけど。 ラーメンじゃ物足りない。 ちゃんぽんだと濃すぎる。 そんなときに神座のラーメンをどうぞって感じかな。 神座、そのうち福岡に進出してくるかな。 でも、福岡のラーメンはとんこつ、麺細めが主流だ わたしが思うに神座はラーメンじゃない。中華めんだ(笑) ファミレスみたいに子連れ、家族連れ (じいちゃん、ばあちゃんも合わせた3世代家族連れ多かったですね) でぞろぞろ行ける店なので、ラーメン食べたいけど小さい子供がいるから行けない家族連れで繁盛するかもと思いました。 ラーメンじゃないけど、中華めんで良ければ神座に行こうか、ってノリ。 ラーメンはやぱりとんこつだ 2013-01-27 (日) | 京都・奈良・大阪 コメント(1)
07 (日)23:59October 鎌倉の大仏と奈良の大仏 この前、奈良の大仏見てきて、鎌倉の大仏の方が良いと思ったので見比べることにした。 鎌倉の大仏見たのは7年前。 目の前に大仏現れた瞬間「お~~~~~」って感動。空をバックにデカ~~いって。 奈良の大仏は大仏殿の中にあるから、大きいのだけどふつうの大仏見ました。的な気持ちだった。 大きさを比べると ・奈良の大仏 像高14.98m、台座3.05m、台座約130t、下から見上げたときの高さ18m、重さ約250t ・ 鎌倉の大仏 像高 11.3m、台座2.05m、台座を含む高さ13.35m、重さ約124t 高さ、重さ共に奈良の大仏の方が大きいです。でもわたし的には鎌倉の大仏のほうが空の中に座ってるみたいで大きく感じる。鎌倉の大仏は中が全部空洞になっているせいか、奈良の大仏の半分ほどの重さしかないんですねー。 そして、仏様の手の形は禅定印(ぜんじょういん)といって仏様の種類で違ってきます。 奈良の大仏は盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)といい、華厳経の仏様。鎌倉の大仏は阿弥陀如来で、銅造阿弥陀如来挫像と言い、鎌倉の大仏が置かれている高徳院の本尊になります。 手だけじゃなくて顔も違うと思います。 こんなことを言ってはいけませんが、書きますが、鎌倉の大仏のほうが優しく見えるのです。奈良の大仏は背中にきらびやかな金色をまといいばった感じがする。っていうか、創建当時の大仏と大仏殿の建造費は現在の価格にすると約4657億円ということで本当にお金かけてるから、そう見えて当たり前ですが。 奈良の大仏が部分的に何度も作り直されていて、建立当初のものはほとんど残ってないのに対して、鎌倉の大仏は補修はされていますが、ほとんど造られた当時のままだとされています。 というわけで、鎌倉の大仏の方が(わたしは)好きだ。 2012-10-07 (日) | 京都・奈良・大阪 コメント(0)
24 (月)14:46September 世界遺産「春日大社」 春日大社は春日山原始林を背景に奈良公園内にある神社。 奈良時代に平城京の守護と国民の繁栄を祈願する為に創建され藤原氏の氏神を祀ってます。 広大な境内には、若宮神社、十二社など多数の摂末社があります。 東大寺参道入り口の交差点向かいから春日大社参道入り口へ。 奈良公園内にある木々に囲まれた参道がとても良かった。 林の中の鹿は自然そのもの。 かわいかった。バンビ❤ そして、参道のいたるところに灯籠が。 境内にある3000基の境内にある灯籠は、昔から今日に至るまで、藤原氏をはじめ、広く一般国民から奉納されたものなんだそうです。 二ノ鳥居。 苔が生えた緑色の大きな木の根が美しい。 空見上げたら色付いたらさらに美しくなりそうな紅葉。 春日大社、何が良かったかって・・ 車道の隣に広がる原始林のなか続く参道でした。 空気がきれいで厳かな雰囲気。 鹿がいて、はるか昔からの苔が生えた大木が残る参道。 気持よかった 2012-09-24 (月) | 京都・奈良・大阪 コメント(0)
23 (日)23:50September 世界遺産「東大寺」 奈良っていえば「奈良の大仏」なので「東大寺」行ってきました。 東大寺参道は鹿がたくさんいた。多すぎだろ。 東大寺は華厳宗(けごんしゅう)大本山の寺で、金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)」が正式名称。 聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けれ、奈良の大仏として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とします。 奈良時代の東大寺の伽藍(がらん)は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)。僧房の東には食堂(じきどう)。そして、南大門~中門間の左右に東西2基の七重塔が回廊に囲まれて建ってました。 745年に起工、40年近い時間を要して一通りの伽藍が完成しましたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失し、現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されています。 南大門。 これは見応えたっぷり。古くから建ってるんだなーって歴史感じる。 南大門の金剛力士像(仁王像) これもデカかった。 (金網がじゃまで見えにくいのが残念よね) 鎌倉時代(1203年)に当時の天才的仏師(彫刻家)と約20人の弟子によって約70日間で造られ、高さ約8m、重さ約3t、頭部の中心には経典1巻が納められています。 ローマ遺跡と同様、筋肉質だ。古代ローマ人と体型は違うけど日本でも強い仁王様ともなればやはり強いカラダ。 金堂(大仏殿) この中に大仏様が。。 東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう) 野外に造られた鎌倉の大仏様の方が迫力あるなー。って思った。 大仏殿の中には他に4体の像がありました。 大仏様の両隣り。 大仏様の後方門っこには、広目天(こうもくてん)と多聞天(たもんてん)。 仏教における天部の仏で、持国天、増長天と共に四天王といわれます。 広目天、梵名ヴィルーパークシャとは本来サンスクリット語で「種々の眼をした者」あるいは「不格好な眼をした者」という意味だが、「尋常でない眼、特殊な力を持った眼」さらに千里眼と拡大解釈され、広目と訳されました。 多聞天は日本では四天王の一尊として造像安置する場合に呼ばれ、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ぶのが通例である。中央アジア、中国など日本以外の広い地域でも、独尊として信仰の対象となっています。 梵名ヴァイシュラヴァナという称号は本来「神の息子」という意味だが、「よく聞く所の者」という意味にも解釈できるため、多聞天(たもんてん)とも訳されます。 特にこっちの多聞天、魅入ってしまった。 右手に宝塔を捧げ持ち、左手で宝棒を握ってます。 毘沙門天。 日本では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表され、持物は宝塔が一般的。また、邪鬼と呼ばれる鬼形の者の上に乗ることが多い。 インドにおいては財宝神とされ、戦闘的イメージはほとんどなかった。中央アジアを経て中国に伝わる過程で武神としての信仰が生まれ、四天王の一尊たる武神・守護神とされるようになった。そして帝釈天の配下として、仏の住む世界を支える須弥山の北方、水精埵の天敬城に住み、或いは古代インドの世界観で地球上にあるとされた4つの大陸のうち北倶盧洲(ほっくるしゅう)を守護するとされる。また、夜叉や羅刹といった鬼神を配下とする。 また、密教においては十二天の一尊で北方を守護するとされる。また日本独自の信仰として七福神の一尊とされ、特に勝負事に利益ありとして崇められてます。 いっぱい神様がいるのねー。 大仏殿のなかでおみくじひいたら大吉 東大寺参道わきの川や木々がきれいでした。 秋なればさらに美しいだろう。 東大寺、一番印象深かったのは、大仏ではなく上の写真のような景色と毘沙門天でした。 このあと、鹿を眺めながら春日大社へ向かいました。 2012-09-23 (日) | 京都・奈良・大阪 コメント(0)
23 (日)22:23September 世界遺産「興福寺」 奈良時代は、710年に元明天皇によって平城京に都を遷都してから794年に桓武天皇によって平安京に都を遷されるまでの84年間をいいます。 (狭義では784年に桓武天皇によって長岡京に都を移されるまでの74年間) 今日は「世界遺産奈良の文化遺産」 巡りの日。 といっても、興福寺で阿修羅像を、東大寺で大仏を、奈良公園で鹿を見て、春日大社まで行けば満足の予定。 家最寄駅の大和高田から大和八木⇒西大寺⇒約1時間で奈良駅到着。 駅から10分も歩かないうちに鹿が出現・・ 「鹿だわ!」と思ったけど、このあと鹿はどこにでもほんとにあらゆるところにいて珍しくなくなった。 「興福寺」 南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院で、南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇ったそうだ。 藤原鎌足夫人が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、669年に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源。壬申の乱のあった672年、山階寺は藤原京に移り、厩坂寺(うまやさかでら)と称した。 710年の平城遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付け、この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。 中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。その中金堂は創建当初の姿を再現する新・中金堂の建設中でした。 東金堂(とうこんどう)と五重塔 南円堂は西国三十三箇所第9番札所。 江戸時代は21000石の朱印を与えられ保護された興福寺だが、1868年に出された神仏分離令で、春日社と一体の信仰が行われていた興福寺は大きな打撃をこうむり、子院はすべて廃止、寺領は1871年(明治4年)の上知令で没収され、僧は春日社の神職となったそうです。 境内はて奈良公園の一部、奈良地方裁判所、奈良ホテルとなってしまったり、一時は廃寺同然となったけど、廃仏政策が反省されだした1881年(明治14年)ようやく興福寺の再興が許可され、1897年(明治30年)古社寺保存法が公布され徐々に寺観が整備されて現代に至っているそうです。 寺に塀が無く公園の中に寺院があるのは、この時の名残である。 確かに五重塔と東金堂、南円堂がぽつんと建ってるさまがその通りだと思った。 さて 興福寺と言えば「阿修羅像」 興福寺宝物殿の解説では、「阿修羅」はインドヒンドゥーの『太陽神』もしくは『火の神』と表記され、帝釈天と戦争をするが、常に負ける存在で、この戦いの場を修羅場(しゅらば)と呼ぶとのこと。なるほど。 姿は、三面六臂(三つの顔に六つの腕)で描かれることが多いらしい。 実物は宝物殿にあります。だけど入館しなかった。 ワタシ。あまり興味がないみたいだ 寺の周りをふらっと歩き、五重塔を見て満足したのでした 2012-09-23 (日) | 京都・奈良・大阪 コメント(0)
22 (土)13:43September 奈良時代のお勉強 ◆奈良時代とは、710年に元明天皇によって平城京に都を遷都してから794年に桓武天皇によって平安京に都を遷されるまでの84年間をいいます。(狭義では784年に桓武天皇によって長岡京に都を移されるまでの74年間) 律令国家・天皇中心の専制国家・中央集権を目指した時代であり、また、奈良時代の皇族や貴族が遣唐使によってもたらされた周(武周)や唐の文化を積極的に取り入れた仏教的な天平文化が花開いた。(唐からの文化移入には九州の大宰府が果たした役割が大きいと考えられる) 『古事記』『日本書紀』『万葉集』など現存最古の史書・文学が登場した。 『古事記』 ・・ 712年に献上された、現在確認できる日本最古の歴史書で上・中・下の全3巻に分かれる。古事記に登場する神々は多くの神社で祭神としてまつられ、今日に至るまで日本の宗教文化と精神文化に多大な影響を与えている。 『日本書紀』 ・・ 日本における伝存する最古の正史 『万葉集』 ・・ 7世紀後半から8世紀後半ころにかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年以後とみられる。 2012-09-22 (土) | 京都・奈良・大阪 コメント(0)