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23 (日)
22:23
September

世界遺産「興福寺」

奈良時代は、710年に元明天皇によって平城京に都を遷都してから794年に桓武天皇によって平安京に都を遷されるまでの84年間をいいます。
(狭義では784年に桓武天皇によって長岡京に都を移されるまでの74年間)

今日は「世界遺産奈良の文化遺産」 巡りの日。
といっても、興福寺で阿修羅像を、東大寺で大仏を、奈良公園で鹿を見て、春日大社まで行けば満足の予定。

家最寄駅の大和高田から大和八木⇒西大寺⇒約1時間で奈良駅到着。


駅から10分も歩かないうちに鹿が出現・・ 
「鹿だわ!」と思ったけど、このあと鹿はどこにでもほんとにあらゆるところにいて珍しくなくなった。

「興福寺」
南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院で、南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇ったそうだ。


藤原鎌足夫人が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、669年に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源。壬申の乱のあった672年、山階寺は藤原京に移り、厩坂寺(うまやさかでら)と称した。
710年の平城遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付け、この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。
中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。その中金堂は創建当初の姿を再現する新・中金堂の建設中でした。

東金堂(とうこんどう)と五重塔


南円堂は西国三十三箇所第9番札所


江戸時代は21000石の朱印を与えられ保護された興福寺だが、1868年に出された神仏分離令で、春日社と一体の信仰が行われていた興福寺は大きな打撃をこうむり、子院はすべて廃止、寺領は1871年(明治4年)の上知令で没収され、僧は春日社の神職となったそうです。
境内はて奈良公園の一部、奈良地方裁判所、奈良ホテルとなってしまったり、一時は廃寺同然となったけど、廃仏政策が反省されだした1881年(明治14年)ようやく興福寺の再興が許可され、1897年(明治30年)古社寺保存法が公布され徐々に寺観が整備されて現代に至っているそうです。
寺に塀が無く公園の中に寺院があるのは、この時の名残である。
確かに五重塔と東金堂、南円堂がぽつんと建ってるさまがその通りだと思った。
さて
興福寺と言えば「阿修羅像」

興福寺宝物殿の解説では、「阿修羅」はインドヒンドゥーの『太陽神』もしくは『火の神』と表記され、帝釈天と戦争をするが、常に負ける存在で、この戦いの場を修羅場(しゅらば)と呼ぶとのこと。なるほど。
姿は、三面六臂(三つの顔に六つの腕)で描かれることが多いらしい。
実物は宝物殿にあります。だけど入館しなかった。
ワタシ。あまり興味がないみたいだ


寺の周りをふらっと歩き、五重塔を見て満足したのでした

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